さて、昨日は東京にマタイ受難曲を聴きに行ってきました。
「文京シティ・コア」の定期演奏会です。テノールのソロに我らがミラーさんが出るっていうから、勇み足で。
会場は文京シビックホール。
でっかいホールに、たくさんのお客さん。年齢層が結構高め。
合唱団のメンバーを見ると、なるほど、こちらも年齢層が高め。
東京で趣味で合唱やるなんてのは、生活に余裕が出来てからじゃないと出来ない人が多いのだろうか、と邪推してました。
演奏ですが、う~ん・・・
ドイツ語のイントネーションというか、ディクションというか、私たちの日頃一番の課題である「言葉を活かす」ということにはあまり留意されていないのかしら。
実際、休憩中にどっかの指揮者っぽいおばさん(おばあさん?)が
「素晴らしいわね。しっかり声が支えられていて!声量が出てるわ。」
と御高評を述べられていて、なるほどなー、そこなんだなー、と感じました。
特にコラールでは顕著でした。
ソリストとオケは素晴らしかったです。いつもお世話になっているメンバーが多かったし、なんだか親近感がわきました。
マタイは本当に凄い作品です。2003年にやったときの感情がぶわっと再現されて、なんだか軽くトリップしましたよ。
さてさて、行き帰りの新幹線ではこれを読みました。
去年授業で習ったシュタイナー教育の、日本における第一人者である子安先生の新書です。
かなり古い本ですが、先月にゲオで見つけたので、読んでみました。
シュタイナー教育とは何か、というよりは、「ドイツに引っ越して、娘をシュタイナーシューレ(学校)に入れたら、こんなに独創的な教育をしてて驚いた!」みたいな語り口です。
おそらくは、子安先生のシュタイナーに対してのファーストインプレッションが綴られているのでしょう。
特に
*ICH*UND*DU*SIND*WIR*
(わたしとあなたはわたしたちです)
*WIR*SIND*DU*UND*ICH*
(わたしたちはあなたとわたしです)
の件(51ページ)に興味を惹かれました。新鮮な言語感でした。
そこで感じたのですが・・・
マタイのことと関係するんですが、合唱団が「わー」と歌ってても、バッハはなぁんにもそれを抑える術を楽譜に書き記していません。
音量の指示は極端に少ない楽譜です。バロックではこれが普通。
いちいち説明しなくても、まぁ大抵はバッハ自身が指揮してたことが推測されますから、基本的な楽譜でも充分演奏に足りたわけです。
しかし、300年後の日本でこの曲をやるときには何かしら大規模な解釈が必要です。
で、昨日の演奏はどうだったかという話になりますが、解釈をするにあたって何に重点を置いているのか、ヴォーカルスコアを見ながら聴いていて、はっきり言って分かりませんでした。
時代の変遷の影響を受けるのは、楽譜は書き方、楽器の機工、演奏者の人種、文化背景、演奏場所、聴衆の種類など、膨大にあります。
「楽譜の不確定性」という大テーマは私の修士論文でも取り上げていますが、では逆に楽譜の確定部分、確定要素は何なのかと考えると、この場合、ドイツ語ではないでしょうかね。
楽譜を扱う人口より、ドイツ語を扱う人口の方が圧倒的に多かっただろうし、言い方を変えれば「保存状態が良い」要素であるといえます。
つまり、外国の、昔の曲の楽譜を読むときは、言語が大きなとっかかりになるんじゃないかと。
分かり切ったことなんですけどね。
こういう切り口で辿り着いてみました。
コメント
シュタイナー教育ですか。最近授業で習って、あたしも気になってました!