東日本大震災 その時(3/13) – Part 2

3月13日午後。前日から宮古に入った私は、祖父母の安否を確認に行くことになりました。
クルーは義理の弟君と私。その当時は田老の被害がもの凄いことになっているという情報はあまり入ってきていませんでした。テレビ・ラジオでは「壊滅状態」と報じられていましたが、堤防もありますし、何度も訓練していた様子も知っていましたから、町がどうあれ祖父母は逃げているだろうと踏んでいました。つまり、私の認識では「逃げれば助かる津波」だと思っていたのです。今考えると驚きですが。高浜地区が意外にも家が残っていたことも油断した一つの要因です。
田老は柿崎一族が住まう土地。
ここでも国道45号線は通れないことが予想されたので、宮園団地の奥から箱石、佐羽根を通る山道を行く作戦。

グネグネの道を通り、途中かなりの悪路もありましたが、無事佐羽根から田老の水産加工団地付近に着きました。しかし防災無線で、田老の町には津波の恐れがありまだ入れないとのこと。その場に居合わせた覇気溢れる勇者的な男性と、魔法使い的な老人とパーティを組みました。四人で協議の結果、来た道をちょっと戻り、小田代温泉方面から宮古北高校までとりあえず行くことに。妄想の設定ですが私は僧侶。北高まで行けば何かしら情報はつかめるであろうということです。
来た道を引き返し、またちょっとグネグネ道です。無事宮古北高につきました。
宮古北高は避難所になっており、さまざまな人でごったがえしていました。高校生が高校の先生であろう人の指示で色々動いていました。こんな時は教職員は実動部隊にならざるを得ないのですね。ここで、田老の避難者リストを見ることができました。おばあちゃん以外の一族の名前を確認。おじいちゃんの名前を見つけ喜んだのですが、しかし、おばあちゃんの名前は何度探してもありません。混乱しているようだったので、リストも完璧ではないはず。把握されていない避難者もいるはず、と自分に言い聞かせました。
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津波の危険のため、しばらく北高で足止めでしたが、意を決して三鉄の線路まで行きました。道路は通れないので、みんな張ってあるロープをつたって線路まで上がり、町の中に向かっていました。
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避難者名簿によるとおじいちゃん達がいるのは田老総合事務所(旧役場)。線路から民家に伝って寺→墓→事務所のルート。すぐ下までガレキの山です。
避難所に入ると、ここでも人がたくさん。そこで、医療チームの後ろに見慣れた頭が。おじいちゃん発見です!
津波の時は肺炎で病院に入院していて、避難は看護婦さんの誘導でしたので助かったとのこと。「おれが家に寄って、声かければ母やんも助かったのに…」とひたすら自分を責めます。泣いていました。初めて見たかもしれません。私としてはまずはおじいちゃんが生きていて嬉しかった。
「これからしばらく盛岡に住めばいいよ。明日また来るから!もうちょっと頑張ってね」と言い残し、暗くなりかけだったので避難所を後にしました。避難所を出ようとした時に田老診療所の黒田先生に「カズアキさん(祖父)は早くつれてかえってくれれば助かります。家が気になるようで、夜に外に出ています。」とのこと。まだまだ若いと思って動いちゃうんですね。 ハタから見たら老人の深夜徘徊です。おそらく、一族全員近いうちに盛岡につれていきます、お手数おかけしてすみません、と伝えました。
帰りも線路を歩いて車へ。もうかなり暗くなってきていました。
おばあちゃん、やっぱり流されてしまったんだろうか。頭のなかはそのことばかり。

車まで戻ったら国道45号線は普通に通れるんじゃないか?と義弟と話しになり、ものは試しと45号線に突入したら、通れた(笑)あの行ったりきたりはなんだったんだ(笑)
途中で、ヒッチハイクをしていた田老のガソリンスタンドの店員のおじさんを崎山まで乗せました。「無事なタンクがあったら少しでも燃料必要だろうから店の片付けを…」偉いなぁ。「頑張りましょう!!」と行って別れました。
その後、昨年まで臨時教員をしていた崎山中に。職員、生徒とも全員無事。本当に良かった。高台ですからね。親しかった事務君も元気で、ホッとしました。なんにせよ、水が出ないのが大変だそうです。明日水を持って崎山に行くことが決定。
それから義弟の知人を探しに磯鶏小と宮古商業を回りました。磯鶏小では空振り。宮古商業でビンゴ!義弟は大変うれしがっていました。こんな時だからこそ、無事が嬉しいですよね。
行きつけだったラーメン屋「宝介」が反対車線に移動してしまっているのを「うわー」と見ていたら、なぜか道路にアルマジロの模型が!!義弟は急ハンドル!!悪質ないたずら!?とも思いましたが、あれには笑った!!「ぜってーわざとっすよ!!!」「だよねー!!!!」と騒ぎながら帰路についたのでした。

帰ってから盛岡の実家に連絡し、やはり一族は盛岡に置く方向で。宮古の関係各位には連絡のしようがないけど、避難所にいるよりはなんぼも良いだろうということ。

体はどっしりと重く、頭はショックと興奮でぐちゃぐちゃです。
怒濤の震災三日目はこのように過ぎたのでした。

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