「学校というのはまるでアリの巣のようだな」と、職場の階段をとんとん降りながらふと思った。学校もアリの巣は構造的に似通っている。色んな部屋があって、そこを繋ぐ道、つまり廊下や階段がある。そしてアリや人間がほどほどにひしめいている。アリはそれぞれの役割をもって、食べ物を運んだり、女王の世話をしたりしている。生徒や教師もそれぞれのことをしている。そして各部屋は目的があり、そこにきちんと収まっている。
公立学校のことをいえば、生徒たちは「たまたま」その地域に生まれ、「たまたま」その年に生まれた人間たちである。つまり生徒が巣を選んだわけではなく、あてがわれてそこに入って、もぞもぞと活動しているのだ。決められた時間でチャイムが鳴ればぞろぞろ移動する。
悪い意味で書いたのではなく、「学校が閉塞的だ」ということを言いたいわけではない(むしろこのような批判めいたことは教員ではなくむしろ現役の学生諸君からよく聞かれる)。
アリの巣にはきちんとした組織がある。分業が徹底している。そして、空調や清潔がきちんとしている。そういう意味では最近では学校にもエアコンがあるし、毎日掃除もするし、給食が出てくる。生徒は避難訓練もするし、不審者対策もしている。そして何より今まで人類が培ってきた知識や知恵を授業で教えて貰える。また、(現時点での)一般的社会性を身につけることができる。
そして生徒だけでなく、我々教師もその巣の中にいる。授業をしたり、事務仕事をこなしたりしている。ガリヴァーのような巨人が我々の巣を輪切りにしてみてみたら、どのアリ(私たち)も生き生きと蠢いているように見えるのかもしれない。いいことではないか。(ガリヴァーは小さい人のときもある)
私はその中で「音楽室」というところによくいる。ここはだいたい音楽の授業が行われる。あとは広さを買われて集会に使われたり、部活の合奏をやることもある。
最近、娘(ポエティー)がだいぶ人間らしくなってきて、ダンゴムシなどをいじるようになった。ちょっと前までは私は「最近ダンゴムシなんて減ってしまったな、これも近年の環境の変化か」なんて思っていたが、いるところにはちゃんといるのだ。ただ私が大人になってダンゴムシ世界から遠ざかっていただけだった。ポエティーは今ダンゴムシ世界で生きている。私も幼少期はアリが好きだった。本当にアリが好きだった。アリの巣の前に陣取っていつまでもアリを見ていた。さっ、さっ、とやることを見つけ、食料となるものを咥えて引っ張っていくし、巣を拡充しているのか、砂のつぶをちびちびと移動させる。お互いが出会うとちょんちょんと何かを交流しているように見える。
そのような世界を眺めるのに没頭し、ある時ついに学校に遅刻してしまった。とほほ。
今は大人になって、アリ世界から離れたと思いきや、自分がアリの巣的なところで仕事をしている。あの頃とは立場が逆になったわけだ。
音楽室は学校の中の区分では「特別教室」となっている。その中でも「音を出すための部屋」という特徴は他の教室にはない。爆音で音を出していても「まあ音楽室だし」と許容されるところがあるし、「音楽室の近くだから静かに移動してよ」と静寂をリクエストすることもできる。音楽を生業にしている自分としては、つくづく理想的な部屋である(特にうちの音楽室のオーディオはとてもいい。アキュフェーズがあるし、でかいJBLがある。素晴らしい)。
今は少しずつ我が音楽室でドビュッシーが流れている。部活で彼の「小組曲」をやっているからだ。
私にとってクロード・ドビュッシーは特別な作曲家である。子どもの頃、我が家にCDプレーヤーが先駆けて導入され「何度聴いても音質が落ちない!」と親が感動していた。どこで買ったかは分からないが(三ツ割の「ブックバーン」かもしれない)、「アルファ波ミュージックやすらぎのピアノ名曲集」というピアノの2枚組のオムニバス盤があり、その2枚目を良く聴いた。こんな収録曲だ。

1990年 ポニーキャニオン
(以下2枚目の収録曲)
1 夢 ドビュッシー
2 シンフォニア第11番 バッハ
3 幻想即興曲 ショパン
4 道化師 カバレフスキー
5 ロンド モーツァルト
6 インベンション第13番 バッハ
7 小さな黒んぼう ドビュッシー
8 月の光 ドビュッシー
9 アラベスク 第1番 ドビュッシー
10 アラビアの踊り チャイコフスキー
11 タンゴ アルベニス
12 ガボット バッハ
13 ジーグ バッハ
14 小さな羊飼い ドビュッシー
15 平均律第1番プレリュード バッハ
2枚組のうち、1枚目はショパンらの名曲が並んでいるが、子供ながらに辟易してしまった。なのでほとんど2枚めしか聴いてない。特に「アラベスク」が好きで、「この曲が好き」と言っていた。今思うと長7の雰囲気が好きだったのではないか。あとはフラット系への移調も。
後々CDラジカセを部屋に持ち込み、自分の空間で音楽を聴くようになった時、夜寝る前にこのCDを子守唄替わりに聴いていた。その時には窓から月を見上げ、湖を眺めていたものだ(なんていい立地なんだ)。

ちょっと思うのは、横浜から転校してきて上手くこちらの学校に馴染めていないことで多少なりとも悩んでいた時期のような気がする。ギャング・エイジに向いていない性格のため、転校の有無によらず悩んでいたかもしれないけど、当時は「ああ、あっちに戻りたいな」と寝る前には思っていた。「空が飛べたらいいのに」となんべんも考えて、横浜の新石川まで飛んでいくことを想像していた。記憶のなかでは、当時の気持ちと、この曲たちが柔らかく混じり合っている。
聴いていたこれらの収録曲には「懐かしさ」と「さみしさ」を見出していたような気がする。今でもその頃の感覚は少しだけ残っている。これは幸せなことだと思う。この時期をきっかけに「いい音楽だな」と自分が感じる曲の多くに「懐かしさ」が入ってるように感じる。あるいは「さみしさ」。
音楽が手がかりとなって、過去のある時間とか場所にありありと戻っていく感覚のことは「メンタルタイムトラベル(心の時間旅行)」と呼ばれるらしい。
1 .なつかしさとは何か
「なつかしさ」の語源である古語「なつかし」は、「なつく」という動詞が形容詞化したものである。古くは「心が魅かれて離れがたい」という意味で、奈良時代の『万葉集』で使われている。そして鎌倉時代には、「かつて慣れ親しんだ人や事物を思い出して昔に戻ったようで楽しい」という現代と近い意味で使われるようになった。そこで、本稿では、なつかしさを、「過去に頻繁に接触することによって親近感が高く、かつ最近は接触していない対象(例:子どもの頃に使っていたおもちゃ、昔の電化製品、風景の写真)を手がかりに、過去のことを思い出す時に伴う感情」と定義する。その時に起こることが、メンタルタイムトラベル(心の時間旅行)でもある。たとえば、ある展示物が手がかり(例:昔の道具)となって、その道具を使っていた過去の時間と場所に戻って、当時の出来事をありありと思い浮かべて、再体験することである。なつかしさとはメンタルタイムトラベル(心の時間旅行)をしている時に感じる感情である。来館者は、展示物の昔の道具を見ながら、「これは、小学生の頃、居間にあって、いつも使っていた…」等と、同伴者に話していることからもわかる。
「なつかしさを支える心理的メカニズム―レトロ・ノスタルジー展示のために」
楠見 孝(京都大学大学院教育学研究科教授)博物館研究 Vol.58 No.8 (No.663)
子どもだった私は理屈などもちろん知らないのだけど、夜な夜なドビュッシーの「月の光」や「アラベスク」に乗って、横浜まで飛んでいこうとしていたのはまさに、こういうことだったのかもしれない。
大学の作曲ゼミでは「ドビュッシーの音楽の構造」について話題になったことがあった。確か「脈絡がないとは言わないが、違う素材の連結が多く見られる」ような話だった気がする。今聴くとそうでもないような。ピアノ曲だけ聴いてるからかな。
ともかく、このCDのラインナップを見て分かるように、ドビュッシーがかなりの率を占めている。選曲した人もきっとドビュッシーが好きなんだろう。いや、これは絶対好きだ。
たぶん私も好きなんだろう。以前「陰翳礼讃」(第一回)を行った時にド即興をやって力試しをした。ファースト・セットが終わった時にジャズ研の若者が「ドビュッシーのような…」と話しているのが耳に入った。その時はなぜか内心ムッとしたのだけれど、今考えるとこればっかり聴いているんだから、当然といえば当然か。
そして、ついに(なのか?)仕事でドビュッシーをやることにした。今年は去年より人数は減るけど、サウンドは透明感があったし、クラシックのアレンジものをやろうと方向はすぐに決まった。クラシックでいえば、私の好きなのはバロック~古典と印象派なので、自ずと印象派にしぼりました。バロック~古典は吹奏楽にする時にはかなり手を入れなきゃいけないし、長大で壮大なアレンジなら聴き映えがするけど、それはあまり現実的じゃなかった(シャコンヌみたいに)。だからドビュッシーか、ラヴェルか、どっちにしようか?という悩みがスタートである。色々考えた結果、たどり着いたのが「小組曲」だった。特に「行列」が気に入った。
そんなこんなで、ドビュッシーがアリの巣の一角で演奏されている。子どもたちには「懐かしさ」みたいな良さは伝わらないかもしれない。まぁ、まだ楽譜を演奏するので必死だし、「決められた曲」だしね。まぁ、後々ね。
しかし、この「アリの巣でドビュッシーが鳴っている」という今の状態にはどことなく奇妙さを覚えている。ドビュッシーは私の中では「懐かしさ」のようなものが散りばめられているのだけど、学校はもともと生徒たちにとってはリアルタイムなもので、いうなれば「懐かしさを作る場所」である。
生徒たちはまだドビュッシーを懐かしむことができない。当たり前だ。懐かしむためにはまず、体験が要る。記憶が要る。時間が要る。私がやっていることは、もしかしたら懐かしさの「種」を蒔いているということなのかもしれない。何年後かに、誰かが『アラベスク』を耳にして、ふと中学校の音楽室を思い出す――そういうことが起きるかもしれない。起きないかもしれない。でも、起きてほしいと思っている。
音楽によって後に呼び起こされる自伝的記憶の質は、その音楽を聴いた時にどんな感情体験が深く関わっている、らしい。
自伝的記憶想起には音楽が懐かしさを喚起することが重要であり,懐かしさを感じる際の感情的な記憶の関連も必要不可欠だと考察される。
つまり,自伝的記憶を想起させる音楽においては,聴取経験だけでなく,音楽の経験時にどのような体験をし,どのような感情を抱いたかという点が重要な視点だと考えられる。
「懐かしさと音楽の関連についての研究の動向― システマティックレビューを用いて ―」
宇佐美 桃 子(金城学院大学大学院人間生活学研究科博士課程後期課程)
引用
だとすれば、子どもたちは今ドビュッシーをどんな気持ちで聴いているのだろうか。責任重大である。
さて、私は「教えている」のだろうか「聴き続けている」のだろうか?
それは―「たぶん両方だ」…などというベタベタな結論には至りません。
事実はアリの巣の一室でいきいきと(あるいは淡々と)授業をし、管楽アンサンブルを教えているだけである。つまり「教えている」「聴き続けている」の主語は「わたし」であり、「わたし」が何をしているのか決めるべきなのだ。
「教えたい」「聴き続けたい」という欲求はバラバラにではなく、渾然一体となってこれまで自分の人生を支えてきた。
以前、学校のあり方の一つである「学びの共同体」の理念に触れ、教師もまた学ぶ一員だと気づかされた。それは年々薄れてしまっていたが、実はつい最近出会い直すことがあった。そしたら「教えたい」「聴きたい」という意欲が高まっている。とてもいいことだ。
アリの巣を見ていて遅刻した自分が、今巣の中にいる。外から見ていた時には気づかなかったけれど、巣の中にいると、ひとつひとつ、ひとりひとりの動きのディティールが感じられる。生まれ年と地域で輪切りにされているはずの子どもたち。小さかった頃の私が見惚れたように、彼らは集団としてあるいは個として一生懸命動くだけで魅力的なのだ。彼らとノスタルジックな時間を持てることを幸せに感じるべきなのだ。教師になりたての頃に触れた「観察者・監督者→参加者」という考えからいくと、自分も今はアリだし、自分がアリになるというのは案外に悪いことではなさそうだ。
それにしても「自伝的」なところとか「懐かしさ」、「天職」なんてことはこのブログでさんざん記事にしてきたことだ。言いたいことはいつも一緒なのかもしれない。だけどいつも言いたいわけじゃないんだなこれが。


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