手紙

うちの父方の祖母はいわゆる「筆まめ」で、よく手紙を書いていたようだ。それに留まらず川柳(詩歌)を嗜んでいて、若くして娘を亡くした時などは「さみしくて りんごの皮を 長くむく」と詠み、それは祖父母の家にずっと飾ってあった。子供ながらにその行間を読んで「つらかったんだなぁ」と思った記憶がある。その家も津波の惨禍に巻き込まれて祖母もろともさらわれてしまった。

ある日実家に行ったら「淡雪」という自費出版の白い本がすとんと置いてあり、ぱらぱらとめくってみると「ひ孫 倫史誕生」などと書いてありびっくりした。曽祖母の遺稿集だった。祖母が曾祖母の死去に合わせて手記や手紙、感じ入った想いを込めた川柳(かなりの数だ)などを集めた本である。文学に親しむどころか「本を編纂する」となると、これはもうかなりの領域である。すごい。

昭和六十年 二月二十三日

喜代子、和弘一家が来た。(中略)倫くんが玉のれんを動かして神社の参拝のまねをするので、みんなでころげて笑った。かわいい盛である。

「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものだ。

あとがき

一夜にして逝ってしまった母。初七日も過ぎ、母の部屋を後始末していたら抽出の中から一枚のチラシや小さな手帳に何かしらの文字が書き込まれてありました。(中略)時に筆をとり、メモをする母は、自分の人生に何かを残して行きたいと思ったのではないでしょうか。母が残してくれたものは、粗末で他にお見せするようなものではございませんが、本らしいものにまとめれば、亡き母も満足してくれると思います。父母の追悼というにはつたないものですが、まとめておけば嬉しいにつけ、悲しいにつけ、この本を通して父母に逢えると思うのです。(後略)

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このあいだ、研究主任が集まる研修があり、ブレインストーミング的なところ(たぶん)で、「なぜこの教科を学ぶのですか?」という問いがなげかけられた。どうもこの手の「そもそも」の問いに対しては「よしやってやるぞ」みたいに腕まくりして考えるところが私にはある。4名のグループ内で発表し合ったのだが「人類の長い歴史の中で、必要なものは残り、不要なものは淘汰されてきたと思う。音楽はその中で、ずっと残り続けてきた人間の営みのひとつだ。なぜ必要なのかという説明は後からついてくるもので、説明される以前から音楽はすでにそこにあった。だとすれば、それを次の世代にきちんと手渡すことが、公教育の役割なのではないか」なんてことを言ったら「お、おおー…」となった。若干引いていたような気がする。でもこれって本当にそうですよ。大真面目に。

そして「人間の歴史」なんて大それたこと言っちゃってますが、40年ぐらい生きていると歴史年表に載るようなことが本当に起こってくるもんだから、ついつい大局的な見方で考えたりもしてきますよね。

数多くの天災、凄惨な事件、改元、戦争やテロ、そして極め付けの疫病。みんな等しく歴史の中に生きているんだ。

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研修から二日後に母から電話があり、珍しく「時間ができたら折り返して」とのことだった。何事かと思ってかけたら「祖母から手紙が届いている」と。ちょっと待って。

種明かしをすると、宮古市で2001年(平成13年)にシーアリーナのところに埋めたタイムカプセルの中にこの手紙が入っていたのだ。2026年の3月にそれを掘り起こして開けるイベントがあり(https://www.city.miyako.iwate.jp/gyosei/soshiki/hisho/9/19/10723.html)、そこから送れる手紙に関しては宮古市が順次発送していたとのこと(本当に感謝します)。

しかしこの電話の時はまだなんとも分からず頭が混乱してしまった。要は死者からの手紙なわけだから。

仕事終わりに慌てて実家に向かい、手紙を受け取った。白い封筒に私の実家の住所に私の名前。差出人には祖母の名。弟にも手紙が来ており、そちらはこの通りでバズりました。

弟のはボールペンで認められていましたが、私のは筆もしくは筆ペン。私が二歳の時の写真も同封されていた。

新聞で未来メッセージを見ましたので倫史君に書きます。

今、平成十三年二月二十二日午後九時ニ◯◯一年です。

この手紙は二十五年後に倫君に届きます。

あなたは現在十七才 二十五年後は不惑の四十才頃と思います。社会人として中堅の社員か先生か頑張っている頃だと思います。

おお…先生になっているという予言めいたことは当たっている。しかし、こんな手紙が本当に自分の元に届くとはにわかには信じがたい。事実は小説より奇なり(Truth is stranger than fiction)とはよくいったものだ。こんなのは本当に小説やテレビ・映画の世界である。

内容としては、孫への愛情や家庭のことなどがぽつぽつと綴られていた。実に達筆である。途中で

今の祖父母は生きても後十年ぐらいだと思います

と記述があった。祖母は70歳の時にこの手紙を書いた。つまり80歳の時にはいよいよだぞ、ということか。そうして、本当にこの10年後に、2011年に祖母は逝ってしまうのであった。

そうして手紙の最後には「さようなら」と綴ってあった。無言の別れとなった祖母の「さようなら」がもらえたことは私たち家族には大変大きなことだった。

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手紙をなんべんも読んで、「そういえば何かがあるかもしれない」と祖母の影を追うようにもう一度「淡雪」のページを繰っていると曽祖母から祖母に宛てた手紙が目に留まった。

喜代子江

 敗戦を見た24年8月が終えると今度は食糧難に追われた。23年〜24年頃の食糧難は言語にならないぐらいひどかった。(中略)喜代子が年頃になったら着せてやりたいと買って置いた金沙の着物も、米ニ斗に化けてしまった。そんな時代を過ごした26年3月、喜代子は県立女専を卒業して田老に赴任した。(中略)昨年はみなみなさまのご厚意で八十才のお祝いもしてもらって、今は何のみれんもありません。何時、どこで死すとも心残りはありません。長い長い間、御身には一方ならぬご厚情を頂き厚く御礼申し上げます。(中略)子供たちも成長して社会人となり、すべて親の事は理解出来る年頃です。これからは夫婦揃って最大の幸福者として暮らして下さい。(中略)今老ひて八十路を越え、字はだんだん書けなくなりましたが、まだボケません。生あるものは必らず死す、老いてしかりなり、誰でも歩む道です。皆な何時の日か知らずに老いて行くのです。そして過去を思い出すのです。過去のない人生など在り得ません。(中略)亡きお父様の妻として子供達への責任も使命も果たしました、何んの心残りもなく眠りたいのです。今年の暮は、何んとなくふらふらして生きているのが大儀です。今年は駄目かな。遺言みたいなものと思って独りぼっちで炬燵に入って書きました。あとのことは喜代子よろしくおねがいします。

(「淡雪」より)

曾祖母からこの手紙をもらった祖母。

祖母にとっては80年というのが大きな意味のある数字だったのかもしれない。自分がもらった人生をどうつなげていくのか、祖母は考え続けていたのではないだろうか。

先に言ったとおりで、歴史の中で私たちは生きている。

いや、私は祖母の歴史の中の一部分なのである。

それぞれの自分史があって、それぞれが他人史の一部なのだ。

こんな大切なことを今の歳になって教えてくる祖母はやはりすごい。すごい人になりたいな。

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