ある研究によると、音そのもの(聴覚)やにおい(嗅覚)と比して、「音楽」で呼び覚まされる記憶というのは特殊なものであるらしい。
感覚刺激から思い出される出来事に関して、聴覚刺激よりも嗅覚刺激の方が出来事当時に戻った感覚を強く生じさせ、より昔の出来事を思い出させることが知られている。そこで自伝的記憶と関連があると考えられる懐かしさについて、聴覚刺激と嗅覚刺激の間で差がみられるのかを検討した。刺激として音楽、音(環境音等)、においの3種類を用い、刺激に対してどれくらい懐かしさを感じるかを7件法で回答させた。その結果、音楽の方がにおいよりも懐かしさ評価が有意に高く、音の方がにおいよりも懐かしさ評価が高い傾向 がみられた。また、懐かしさ評価について思い出す出来事があった場合となかった場合で比較を行うと、音やにおいによる懐かしさ評価は思い出す出来事がなかった場合に低くなったが、音楽による懐かしさ評価では両者で差がみられないという特徴的な結果が得られた。この結果は、これらが異なる種類の懐かしさであることを示唆している。
ここで論じられている「自伝的記憶」「懐かしさ」などの視点が面白い。なるほど。
この夏はこの逆で、懐かしさと関連した空気が音楽を想起させることがあった。実感である。
自伝的記憶。
この一ヶ月で、「自伝的な音楽」と、「自伝的記憶になっていくもの」とが、絵の具を水に溶いたようなグラデーションを作りながら、ぐるぐると混ざっていっている。
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私を形作っている大半は音楽で、その音楽が現在の形になる時の分かれ道が、15歳の頃に起こる。
1998年の夏は暑く(たぶん。そもそも夏は暑い)、大きなできごとが次々に起こった。
とはいってもあくまでも私の、若い(とても若い。子ども)中学3年生の主観である。つまり、部活で初めてコンクールに出たとか、人間関係が揺れたりとかで、「隕石が落ちた」的な社会的な大事件ではない(もっとも、その年の秋には隕石が落ちてくる映画を見たのだけど)。ごくごく個人的かつ記念碑(Milestone)的な夏。その後の何十年を決定づける、鮮烈な出会いがあった夏。
それは誕生日に貰った銀色のステレオ・セットから流れてきた音楽だった。
ソースはFMラジオで(どういった経緯が定かではないが)録音をしなければ、と瞬間的に思ったのだった。
カセット・テープ。そうだ。その何年か前からラジカセが部屋にあったので(正確にはしれっと専有して)、テープの扱いは分かっていたのだ。しかし、ラジオを録音するという発想はどこから来たのだろう。これも覚えていない。
ムッとした暑さが充満する土曜日の夜に、レコーディングのスイッチを押さなかったら私はどうなっていたのだろうか?全く想像ができない。
それまで聴いてきた音楽とあまりにも違いすぎた。曲そのものもどういう作りが分からなかったし、何より演奏の仕組みが分からなかった。すごい。でも何がすごいのかも分からなかった(今となってはこれこそが「理想的な聴き方」だと言える)。
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もうすぐ夏が終わる。
今年の夏も人生で忘れられない夏になった。
従兄弟との突然の別れ、娘の誕生、家族の救急搬送など。非日常に包まれた「いまの夏」の夜に、「あの夏」に聴いた音楽が聴こえてきたのでした。
娘(ポエティー)はかわいいですよ。よかったよかった。
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