あの時。
私はその時講師をしていた岩泉町の小川中学校に勤務していました。生徒数は全校生徒60余名。
“2011年3月11日14時46分”は翌日予定されていた卒業式の予行をしていました。
一通りの練習が終わり、休憩を取って、さて後半というところで地震は来ました。
司会役の教務主任の携帯で緊急地震速報鳴り始め、その聞き慣れない音がマイクを通して体育館中響きました。程なく揺れ始め、出口に近い私はダッシュで扉を開けに走りました。混乱する生徒に向かって教務主任もマイクで「逃げろ!」と叫びました。
生徒達は速やかに避難。訓練の甲斐あり、立派でした。
外に出ても揺れ続ける地面に泣き出す子も。身内からは「死ぬかと思った!」というメールが。つまりは生きてるってことで、安心。地震直後はこうしてiPhoneも使えたのでした。
Twitterでお台場が火事だとか、地割れが起きたとか情報を見ましたが、その時を最後にiPhoneは使えなくなりました。
しばらく外で待機していました。校舎に戻ろうとすると強い余震でなかなか生徒を入れられないのが困りました。
程なく全員下校させることとし、何人かを車で送りました。
車内でIBCラジオを付け、そこで初めて津波が来たことを知りました。沿岸部は壊滅的…
たくさんの身内や仲間が海沿いにいます。心臓の鼓動が速くなるのを感じました。
生徒を全員帰し、状況がどうなるか分からないので、指示が下るまで待機となりました。
電気と水道は使えず、暗闇の中、暖炉に火をともして妙なテンションで語り合いました。
山間の学校なので、まさか沿岸があんなことになっているとは思いもしなかったのです。
上司が教育委員会から帰ってきましたが、本部も大混乱のようで、卒業式どころではない、とにかく延期ということになりました。
そこで、翌日は生徒の安否確認と延期の連絡をするということになりました。
実は田老の祖父母や親戚が気がかりでしたが、たぶん大丈夫だろうという根拠の無い思いがありました。
20時ごろ帰宅。本棚やその他が倒れてくるかもしれないので、ソファをあてがったり妻も大変だったようです。電気はつきませんので、真っ暗。ロウソクも余震がくる度に吹き消してました。
幸せなことに水は出ました。さすが水の町です。そしてガスも大丈夫だったため、お湯を沸かすこともできました。カップラーメンを食べましたが、興奮と緊張のため味が良く分かりません。
今まで食べた中で一番美味しくないカップラーメンでした。
妻の車ではテレビが見られるので、そこで津波の映像を初めて見ました。見てしまいました。
非現実な世界に突然放り込まれたような、まるで夢を見ているような感じ。
おじいちゃんとおばあちゃんなら首尾良く逃げているでしょう。大丈夫。と自分に言い聞かせました。
その日は余震に揺られながら就寝。
コメント