残された者たち

チック・コリアが死んだ。

弟から真っ先に連絡があった。これまで、自分の中に当たり前にあったチックの音楽が、もうこれ以上新しいものが聴けなくなったのだ。ミュージシャンが死ぬとはそういうことだ。

大人になってから3度、生演奏を聴く機会があったが、どれも私の思ったチックではなかった。確かに演奏は素晴らしいのだが(それはもう、素晴らしいのだ)、私の中のチック・コリアの音楽が膨れ上がり過ぎたのだろう。

彼の音楽は、私の中心に位置し、私の音楽の理想そのものだった。ピアノの音がデカい、と言われたこともあるが、チックのあの硬質なタッチに近づくために力が入っていたのだと思う。常にキラキラしていて、透明感に溢れていた。「チック・コリアの音楽」という難解な本を所有しているが、途中で私は読むのを投げ出してしまい、読了せず詳しい解説はできない。しかし、自分の音楽のルーツをフルパワーで出していることは、分かる。自分もそうありたいものだな、と常に考えていた。多少、スタンダードなものとは違うかもしれない、オーセンティックな音楽ではないかもしれないが、表現することをやめてはいけない。チックと親交の深い小曽根真さんのレッスンを受けた時も(そんなこともありましたなぁ)同じ趣旨のことを言われた。それが作曲に繋がる、とも教えてもらった。

さて、そんな思い入れのあるミュージシャンの死に対して、様々な人が動画のリンクを貼ったり、改めて演奏を聴いたり、「Spain大好きでした」とコメントしたり(私は絶対いわないぞ)、さまざまな反応があった。それはそうだろう。私は正直、ここ何日かライブラリのチック・コリアの演奏は聴けなかった。整理がついていないのだ。Facebookで動画を挙げている時も彼はとても自然体で(ガンだなんて知らなかったよ)、今でも精力的に活動している人物だと思っていたから、私にはあまりに突然のことだった。死を偲ぶことなんて到底できない。だってまだ生きているんだから。

それでも人間というのは不思議なもので、彼の残したソロ・ピアノや目の覚めるようなアコースティック・バンドは聴けないのに、サイドメンとして関わったアルバムを聴いてみようか、となってきたのだ。このアルバムは「Like Minds」といって、パット・メセニー、ゲイリー・バートン、ロイ・ヘインズ、デイブ・ホランド、それにチック・コリアの、いわば「オーシャンズ11」状態の「スターのごった煮」のようなアルバムである。何を隠そう私が初めて「ジャズ」のアルバムを買ったのがこれで、1998年、中学3年生の12月で、よくわからないくせにスイングジャーナル誌を買って、発売もされていないのに誌面に「名盤誕生!」と謳われていたこれを手に入れたのである。MDに入れて、ずうっと聴いていると、音楽の先生から借りたアコースティック・バンドと随分違うなぁ、と思ったのを覚えている。ピアノ・トリオでは全開で放出されていたものが、隙間を埋めるように素敵なフレーズが飛び出してくる。時には、主旋律を超えて踊りだす。リズムがバラバラに砕け、そしてまた収斂されていく。

今だからこそ分析的に聴けるが、バッキングの基礎をたくさん学んだアルバムだった。そして、ギターとヴィブラフォンというメロディ/コード楽器との難しいカラミを類稀なる瞬発力で違和感を消していく、その姿は正直言ってカッコいいの一言である。オープニング/エンディングの演出の仕方も流石であった。

2021年2月、このアルバムを聴いている。意味合いが変わったこのアルバムは、どこかの雑誌が言ったように「名盤」になってしまった。二本の手、十本の指が動くことは二度とないのだ。思い切り完全4度で取る左手、Blues由来ではない特徴的なフレーズを繰り出す右手、どれも憧れだった。

音楽活動を再開しようと思う。私もいつ何時、何があるか分からないのだ。彼の遺言を引き継ぎ、「ミュージシャン」(演奏者だけではないんですよ!)を増やしていこうと思う。

遺言は音楽室に貼っておくこととする。

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